フレデリック・ショパン②〈エチュード:練習曲 PART1〉6選

クラシック
クラシックショパンピアノ

〈連想第77回〉

ドビュッシー〈ショパン関連曲〉の回で記述しましたが、ドビュッシーは元々ピアニストを目指していたこともあり、ピアノに対してかなりの思いを持って向き合っていた作曲家でした。

「練習曲」や「前奏曲」など、ショパンの金字塔的作品を明確に意識しながら作曲したものや、「バラード」「舟歌」「マズルカ」「ノクターン」「子守歌」など、ショパンの作品と同タイトルの作品も遺しています。

今回からは、そんなドビュッシーが遺したショパン関連曲の大元のショパンの作品を連続して取り上げていこうと思います。

ポーランドで生まれ育ち、20歳以降はフランス・パリで活動したショパンという作曲家は、ときに「陸の孤島」と呼ばれるほど、クラシック音楽史において独立した、個性的な存在です。

後にも先にも「ショパンっぽい人」というのがいないのです。

例えば、バッハ→ハイドン→モーツァルト→ベートーヴェン→ワーグナー・ブラームスには明確な連続性があり、ワーグナー以降はほぼワーグナーの影響下にあるというような、先人からの積み上げの上に自らのスタイルを打ち出してきた歩みがあると思うのですが、ショパンはショパンでしかないのです。

もちろんショパンも先人の積み上げの上に立っていることは間違いなく、特にバッハとモーツァルトを尊敬していました。

同時代であれば、モシェレスやフィールドなどに直接的な影響を受けています。

スタイル的に近いのは、同い年のシューマンや1歳年下のリストなどになりますが、そんな最も近い存在の彼らと比べてもやはり超然と独立した独特のスタイルを持った音楽家でした。

それでいて人間性は、音楽家・芸術家にありがちな「破天荒」や「変人・奇人」などではなく、幸福で豊かな愛情に恵まれた幼少〜青年時代を過ごし、極めてオーソドックスで明るくロマンチストでユーモアもあり、多くの人から慕われる人柄でした。

もちろん音楽に対して常に真摯に向き合っていたため、厳しい一面があったり、批判的な一面があったりもしたほか、晩年に近づくにつれて、持病の肺結核の悪化に伴い神経衰弱・神経質になっていったようではありますが、それでも常軌を逸脱するような言動は一切ない極めてまっとうな人柄でした。

しかし、音楽・ピアノに関しては、真の天才であったと言えます。

「ピアノの詩人」と言われるショパンは、ピアノ関連の曲しか書かなかった、非常に珍しい、というか恐らく唯一無二のクラシック作曲家ですが、ピアノの全てをとことん追求し、全てを把握し曖昧なところや不明瞭な点は一切なく、熟知・熟練していました。

よく言われることとして、そもそもピアノという楽器が完成した時期と歩みを共にしているため、ピアノという楽器をどうしたら最も効果的に用いることができるか、という楽器としてのピアノの研究者的な一面もありました。

そしてもちろん、プレイヤー・演奏者としても超絶技巧を兼ね備えた神の領域でした。

ピアノ研究者だけあって、どこまでできるか、どのように表現すべきか、ということを追求し、今回取り上げる「練習曲」のような超高度なテクニックを自ら編み出したように、真のヴィルトゥオーゾでした。

しかし、それでいてテクニックのみにはしることを意識的に嫌い、表現力を重視し、そのための指の使い方やペダルの使い方などをこと細かく考え、指示し、それまでになかった新しい演奏方法を多数編み出しました。

ピアノの演奏スタイルが、ショパンの前と後でがらっと変わったのです。

その演奏スタイルを「ショパンは天使、リストは悪魔」のようだと当時言われたようですが、ショパンの演奏は、タッチが柔らかくエレガントで、聴くものを心からうっとりさせる、天にも昇るような感覚になる唯一無二のものだったことが、多数の文献により残されています。

男も女も皆ショパンの演奏に聴き惚れ、虜となったのです。

鍵盤を力強くバンバン叩くように演奏することをとても嫌い、「柔らかく、柔らかく」と、よく言っていたようで、大ホールでの演奏会を避け、もっぱらサロンでの演奏を中心に活動しました。

誰よりも優雅で、テクニカルで、その場にいる人々を引きつけ感動させるピアニストだったのです。

ショパンはまた、ピアノ教師としての一面も持っており、膨大な数の生徒たちにピアノを教えました。

生徒といっても、ピアノの技術は既にかなり高いレベルに達している、貴族などの上流階級の人達だけで、その中でも、レッスンにショパン自身の曲を使用するのは相当なハイレベルな生徒に対してだけでした。

その中には当時の上流階級のトップクラスの人達も名を連ねています。

ショパンはまさに当時のパリ、ひいてはヨーロッパ社交界のトップの人達に対して演奏をしていたのです。

「弟子から見たショパン」という書籍があり、そこには弟子たちや同時代の音楽家(リストやシューマン、ベルリオーズなどほか多数)などが、手紙や日記などでショパンのことについて書かれた箇所を抜粋して記されていますが、そこにはショパンのピアノに対する考え方や接し方、演奏方法や人物像などが書かれていてとても興味深いです。

皆一様にショパンの偉大さ、素晴らしさを口にしていて、ピアノ教師としてだけでなく、音楽家として、人間としても素晴らしい人物だったことがわかる内容となっています。

そして最後に、何はさておき「作曲家」としてのショパンです。

ショパンは、とても独創的で、インスピレーションやひらめきが湧き出てくるような感覚と、非常に緻密で論理的なプロフェッショナルな感覚の両方を持ち合わせていました。

そしてそれは、前述したように後にも先にも同時代の人とも他の誰とも違う、完全に独立したオリジナルな音楽だったのです。

ショパンの曲は現代でも多くの人に感動を与え、愛されている存在ですが、あまり「天才」というふうに言われることは多くないような印象です。(モーツァルトなどと比べて)

しかし、ショパンは本当に天才としか言いようのないような、それまでとは違う独創的な新しい音楽を、緻密に計算した上で、ごく自然に表現していました。

同い年のシューマンが、初めて若き日のショパンの作品を聴いたとき、「諸君、脱帽したまえ。天才だ。」という有名な言葉を残しています。

ちなみ、シューマンは若かりし世に出る前のブラームスのことも天才だと言って家族のように付き合うなどしており、天才を見つける天才とも言われたりしています。

話はそれましたが、後に世のスタンダードとなる「ワーグナー」と言えば、トリスタン和音や半音階進行などの特徴的な作曲技法が有名ですが、これはショパンが架け橋となっています。

ショパンはそれまであまりなかった半音階進行をよく使いました。

それにより、一気に近代的、現代的な響きになり、その後の音楽の潮流の源となったのです。

ショパンについては、まだまだ語り尽くせない多くのことがありますが、今後少しずつお伝えしていくとして、そろそろ曲紹介をしていこうと思います。

まずは、そんな独創的で天才的だったショパンの20歳前後の若き日の作品で、代表曲の1つである「練習曲:エチュード」を取り上げます。

エチュードは、「作品10」の12曲と、「作品25」の12曲の合計24曲で一旦完結しており、更に後年3曲が追加され、全部で27曲作られました。

作品10と25は、24の調性をそれぞれに割り当て、曲の終わりと次の曲の冒頭が繋がるように、1曲単位で見ても、24曲全体で見ても、非常に緻密に構成された曲となっています。

一曲一曲に対して、何のための練習か、どこを鍛えるためにどうすればよいか、ということが明確に示された「練習曲」でありながら、高い芸術性、作品性をあわせ持った素晴らしい作品で、中には誰もが知る超有名曲もあります。

今回は、1829年~1832年にかけて作曲された「作品10」のうち、1~6までを取り上げます。

1 エチュード作品10-1番 ハ長調「滝」

1番はアルペジオ(分散和音)の練習です。

高音と低音との間を高速で上下を繰り返す、練習曲中屈指の高難易度の曲です。

ピアノの端から端まで行ったり来たりするので、見ているだけでとても難しそうです。

演奏は、第8回:1970年のショパンコンクール1位だったアメリカの「ギャリック・オールソン」です。

2 エチュード作品10-2番 イ短調

中指・薬指・小指を鍛えるための練習曲です。

普段そこまで酷使することのない弱い3本の指で半音階進行のメロディーを高速で引き続けなければならないため、超絶技巧練習曲と言われています。

演奏は、第8回:1970年のショパンコンクール2位の「内田光子」さんです。

3 エチュード作品10-3番 ホ長調「別れの曲」

おそらくショパンの曲で最も有名な曲。それどころか、誰もが必ずどこかで聴いたことがあるであろうレベルの超有名曲である、通称「別れの曲」です。

他の練習曲と違い、とてもゆっくりしたテンポで、技巧よりも旋律やポリフォニーの表現力を練習する曲です。

祖国ポーランドを離れ、ウィーン滞在中に、祖国がロシアに敗れた報に接し、悲しみとともにパリに向かう道中に書かれたとも言われています。

ショパン自身が「こんな美しい旋律は二度と書けないだろう」と語っていたほど、本人にとってもお気に入りの曲だったようです。

「別れの曲」と呼ばれる由来は、1934年同名のドイツ映画において使われていたことによるものらしく、それも日本独自の呼び名だそうで、かなり異例のサブタイトルとなっています。

演奏は、第15回:2005年ショパンコンクールで、決勝まで進めなかったものの、聴衆の心を掴み大喝采で「ポーランド批評家賞」を受賞した「辻井伸行」さんです。

4 エチュード作品10-4番 嬰ハ短調

様々な技術を総合的に組み合わせて使う必要がある高速の練習曲。

特に手首の使い方が目まぐるしく変わるなど、両手とも激しい動きとなり、すでに身につけたテクニックを複合的に使う必要がある曲です。

演奏は、早すぎて早回し映像のようになっている笑、旧ソ連の大巨匠「スヴャトスラフ・リヒテル」です。

5 エチュード作品10-5番 変ト長調「黒鍵」

右手の主旋律が1音を除いて全て黒鍵を弾く練習曲。

「別れの曲」や「革命」の次に知名度の高い曲で演奏機会も多い曲です。

演奏は、第14回:2000年のショパンコンクール1位だった中国の「ユンディ・リ」です。

6 エチュード作品10-6番 変ホ長調

左手の旋律をメインとした表現の練習。

別れの曲ほどではないですが、ゆっくりとしたテンポの曲ながら、全練習曲中1、2を争う知名度の低さで、馴染みは薄いかもしれません。

演奏は、第6回:1960年のショパンコンクール1位だったイタリアの「マウリツィオ・ポリーニ」です。

今回は、ショパンの代表曲の1つである「練習曲作品10」から、1~6を取り上げました。

次回は続けて、同作品の7~12を取り上げます。