フランツ・リスト 5選

クラシック
クラシックピアノ

〈連想第89回〉

前回までドビュッシーとショパンの関連性のある曲を取り上げてきましたが、今回はそんなショパンと深い関わりがあるハンガリー出身の「ピアノの魔術師:フランツ・リスト」を取り上げます。

ハンガリー人のイメージが強いリストは、実際「王政ハンガリー」の出身ではあったもののハンガリー語は話せず、ドイツ語を話し活動期の多くがドイツ領内であったことから、実質はドイツ人的な素養が強かったようです。

この時代のドイツの複雑さについては、「モーリス・ラヴェル〈後期〉」の回でも触れましたが、当時「ドイツ」という国はなく、長く続いた様々な国・領地の連合体であった「神聖ローマ帝国」がナポレオンに解体されて以降、バイエルンやプロイセンなどの様々な国や飛び飛びの領地の連合体を総合して「ドイツ」と呼んでおり、オーストリア人とされている「モーツァルト」や「シューベルト」も実質ドイツ人としての素養が強かったようです。

ドイツの叡智である「ゲーテ」も、「ドイツ人、それがどこにいるのか私にはわからない」と言うほど、当時のドイツ人というのは広範囲に渡り、あいまいだったようです。

そもそもドイツの母体となっていた「神聖ローマ帝国」からして、長い年月を経て形態が変化し、ゲーテいわく「神聖でもなければローマでもなく帝国でもない」という、きっちりとした定義・境界のない形骸化した代物で、このようなあいまいで緩やかな連合体状態が長きに渡って続いていた状態、それが当時のドイツだったのです。

そんな事情もあり、リストも「王政ハンガリー人」としての出自・アイデンティティーを持ちながらも、実質はハンガリー語を話せないドイツ人であったという向きが実情であったようです。

そんなリストですが、ショパンとは1歳違いという完全に同時代に生き、同じピアノのヴィルトゥオーゾ・作曲家として、そして一時期はパリという活動の場も同じだったというものすごく近しい存在でしたが、イメージとしての二人はあらゆる面で対称的でした。

ショパンは、温和で物腰柔らかな常識人で、どちらかという内向的な職人気質な部分を持ち合わせた、緻密でありながらロマンティックな人柄でした。

作曲については一曲入魂タイプで、生きた年数が短かったのもありますが、生前未発表曲も含めて全作品で250曲前後、それも全てピアノ曲(独奏ではないものも含みます)と、決して多くはありませんでした。

女性にはとても人気がありたくさんの人に慕われましたが、浮名を流すことはなく、結婚も1度もせず子もなく、女性との関係においては薄幸なイメージが強いです。

結核に冒されていたため常に病気がちで身体は弱く、ピアノのタッチは繊細でコンサートなどの大きな会場での演奏は好まず、もっぱらサロンでの演奏を行いました。

そんな上品で気品あふれるショパンの演奏に人々は「天使のようだ」と、心を奪われました。

晩年は10年間共にした伴侶ジョルジュ・サンドとの関係が最悪なものとなり結局別れ、前後して結核が悪化し身体はボロボロ・フラフラでうつ状態となり、39歳という若さで亡くなりました。

それに対してリストは、内向的なショパンとは対象的に、とにかく全てにおいて派手で破天荒なイメージです。

人々から「悪魔のようだ」と言われたような、超絶技巧の激しくアグレッシブな演奏は、女性を虜にし失神者続出だったといいます。

大きな会場でのピアノ独奏のコンサートというものを始めたのもリストだと言われています。

たくさんの女性と情熱的な関係を持ち、結婚こそしなかったものの、3人の子供にも恵まれました。

その3人のうちの1人が、「ハンス・フォン・ビューロー」→「リヒャルト・ワーグナー」と結婚したあの有名な「コジマ」です。

活動場所もあちこちを転々とし、作曲数も残っているだけでも1,400曲超と多作で非常にアグレッシブでした。

晩年は鬱などのほか様々な病気に苦しめられましたが、74歳というショパンの倍近くの年まで生きました。

ショパンのような1ピアニストという位置づけを超え、批評家などの一面もあり、当時の音楽会の総合的な重鎮・大御所的な位置づけの人物でもありました。

また、ショパン同様多くの弟子を取りましたが、ショパンや同時代のほかのピアノ教師たちのように高額な謝礼を取ることに異議を唱え、無料で教えていました。

弟子たちからは慕われ、とても人格者だったといいます。

しかし、当時楽器としての完成を見たピアノという楽器における表現を限界まで駆使し、テクニックにおいては右に出るものがいなかった天才ピアニスト「リスト」ですが、その作品となると、近現代においては評価・知名度共にショパンよりは低いものでした。

ただそれも最近再評価が進んでおり、特に晩年の無調性や印象主義への架け橋となった作品のほか、「交響詩」の確立など、クラシック音楽史における重要な位置づけを担ったものも多いとされる向きが強くなってきたようです。

今回はそんな「ピアノの魔術師」リストの作品から5選します。

1 即興的ワルツ 変イ長調(1842~1852)

この曲は、「即興的ワルツ」とされているように即興風の曲です。

リストは即興の名手で、2度同じ演奏をすることはなかったといいます。

自分の曲も他人の曲も都度アレンジし、はたまたその場でゼロから曲を即興で創造して演奏するのが常でした。

現代においては、即興と言えばジャズで、クラシックは譜面どおりに弾かなければいけない、というのが世界共通のセオリーですが、当時のクラシック音楽界においては即興というのはごく当たり前に行われていました。

リストだけでなく、ショパンもベートーベンもモーツァルトもバッハも、皆一様に即興の名手でした。

ピアノを司る者としては即興は当たり前、という時代において、「即興曲」というのは多くの作曲家が作曲しています。

リストも即興曲をいくつも作っていますが、その中でこの曲は、軽やかでテクニカルで明るく躍動的なワルツとなっています。

そしてこの曲はショパンが好んだ変イ長調でもあります。リストもまた、変イ長調を好んだかどうか定かではありませんが、小品を中心に変イ長調の曲をたくさん残しています。

演奏は、イタリアの「ヴァネッサ・ベネッリ・モーゼル」です。

2 エステ荘の噴水 嬰へ長調(1877)

ラヴェル「水の戯れ」ドビュッシー「水の反映」の生みの親的存在とも言える、フランス近代音楽への架け橋的な曲。

第4集からなる「巡礼の年」という作品集の最後の作品集「第3年」の中の一曲です。

「第3年」は、1877年という晩年に書かれた7曲からなる作品集で、それまでのリストの作風であった「超絶技巧」「ロマン派」的なものから、「宗教的」「印象派的」なものへ変化していました。

その中でもこの「エステ荘の噴水」は、噴水の水がキラキラとしぶきをあげる情景が音で表現されている、まさにドビュッシーを彷彿とさせる風景的な曲で、ショパンがぼんやりと表現した印象派的な響きを、直接的にはっきりと表現したかたちになっています。

現に、ドビュッシーもラヴェルもこの曲からの影響を公言しています。

演奏は、キラキラした演奏がこの曲にぴったりな、フランスの「アンヌ・ケフェレック」です。

3 ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調(1855)

リストはピアノ独奏曲以外の管弦楽曲も多く作曲しており、ピアノ協奏曲も3曲残していますが、その中でもこの1番は、最も知名度が高く人気の曲です。 

約25年の構想・推敲を経て完成したこの協奏曲は、4楽章から構成され、演奏時間は18分前後と短いものの、往年のリストの魅力が詰まった密度濃い充実した作品となっています。

迫力ある重厚な冒頭からテンションが上がり、その後のとても美しいメロディーでうっとりする、情熱的なリストそのもののイメージです。

この曲を完成させた時期リストはドイツのヴァイマルで宮廷楽長を務めていた頃でした。

ヴァイマルはバッハも宮廷音楽家を務め、ゲーテも宰相を務めていたなど、由緒ある古典主義の都で、文化・芸術にとても造詣の深い場所でした。

この曲の初演は、このヴァイマルで、ベルリオーズの指揮により行われました。

演奏は、冒頭から大迫力で圧巻の感動的な名演(映像では一部カットされていますが…)、「ケント・ナガノ」指揮、「ハンブルクフィルハーモニー管弦楽団」、「辻井伸行」さんのピアノです。

4 超絶技巧練習曲「鬼火」変ロ長調(1952)

リストは15歳の時、「全ての長短調のための48の練習曲」を作りました。

これは、この「超絶技巧練習曲」の前身となるもので、48と言いつつ実際は12曲でした。

次に26歳のときに、この練習曲を改訂した「24の大練習曲」を発表しました。

これもまた24と言いつつ実際は12曲だったのですが、なんと言ってもこの第2稿は、リスト本人でさえも演奏は難しいのではないかと言われた程の、「超」超絶技巧で、あまりに難しすぎるため演奏されることは極めて稀という代物でした。

そしてその後、41歳のときに第3稿となるこの「超絶技巧練習曲」を発表して完結となりました。

今日演奏されているリストの練習曲はほぼこの第3稿です。

若きリストがテクニックを追求した、プロでも弾くのが難しそうな曲集ですが、その中でも「マゼッパ」と並んで演奏機会の多い「鬼火」を取り上げます。

演奏は、ロシアの「ニコライ・ルガンスキー」です。

5 愛の夢 第3番 変イ長調(1850)

フィギュアスケート浅田真央選手が使用したことで、「ラ・カンパネラ」と並んで一般的にリストの最も知名度の高い曲となった感があります。

3曲からなる少作品集のうちの1つで、元々歌曲として作った曲をピアノ独奏用に編曲したものです。

この曲もまた変イ長調です。

リストの典型的なロマン派的な曲と言えますが、終盤とても印象派的なジャジーな響きがあり印象深いです。

演奏はロシアの神童→大御所となった「エフゲニー・キーシン」です。

今回は、ショパンと同じピアノのヴィルトゥオーゾで、年も一歳違いでありながら、その曲調も人生も全く違ったリストでした。

そんなリストが、主に中後半生の人生に物凄く深く関わった巨人がいます。

それは「リヒャルト・ワーグナー」です。

このクラシック音楽の歴史を変えたワーグナーは、リストと、曲や音楽界における立ち位置などの多くを共有し、そして家族にまでなってしまうという密接な結びつきがあった人物でした。

というわけで次回は、「リヒャルト・ワーグナー」を取り上げようと思います。